エコロジカル・ニッチ

塾は休みで外は雨、コロナもあるので自宅で書き物。

 

ついでに3月の休校を境に終わった大阪の小学校の仕事で、放課後に子どもたちと遊んでいた時の話をもとにカリカリと書いております。

 


 

グランドにて

 

みんながドッヂボールのチーム分けをしている中、突然一人の女の子がブランコの方に駆けていった。それを見た数人の子たちも、チーム分けそっちのけでブランコの方に駆けていった。さらにそれを見た残りの子たちも、ボールを投げ捨てて後を追っていった。

 

ドッヂボールをちょっと楽しみにしていた僕は、投げ捨てられたボールを拾ってブランコの方を見た。子どもたちが大揉めしている。そりゃそうだ、ブランコは二つしかない。そのまま近寄って見ていると、代わってもらえなくて泣き出したり、ブランコを独占している二人を指差して大声で「早く代われ!」と怒鳴っていた。

 

全然代わってもらえないので、ブランコを独占していた二人以外の子たちは諦めてジャングルジムやシーソーの方に行った。するとブランコに乗っていた一人が「私も」と言ってブランコを乗り捨てて行ってしまった。一番初めにブランコにやってきた女の子はひとり残された。「キーコー、キーコー」と寂しい音を立てて、次第にその勢いは弱まり、止まった。

 

涙目になって静かに立ち去るその女の子を、ボールを手に持ったまま僕は黙って見送った。

 


 

先生だったら慰めてやれよ、いやそういう話ではなくて(笑)実にわかりやすい社会の縮図を見た、というお話です。

 

一輪車、のぼり棒、シーソー、すべり台・・・、遊具は他にも色々あるけれど、他の子がやっているから、マジョリティーがやっているから自分も使いたい。「人は他者の欲望するものを欲望する(=模倣欲望)」という人間の性を見事に表している現場だったと思います。

 

エコロジカル・ニッチ(生態的地位)は日本語にしてもパッとしませんが、平たく言うと「蓼食う虫も好き好き」です。別の言い方をすると「棲み分け」です。

 

ブランコ空いてないから、のぼり棒に行こう。のぼり棒も空いていないからシーソーに行こう。シーソーも使われちゃってるから虫でも観察しよう。そうやって他者と「被らないようにする」ということです。「同じがいい」という性を「みんな同じだと結局よくない」という知恵を使って棲み分けをする。

 

もちろん模倣欲望しない場合もあって、それは「その他者が自分と同類ではない」ケースです。僕は小学生ではないのでブランコには興味がありませんし、オリンピックアスリートでもないのでメダルには一切興味がありません。「10億円あげる」と言われればありがたく頂戴しますが、それは「棚からぼた餅」であって日頃切望することはありません。

 

でも模倣欲望という人間の本質を解禁して、むしろすごい勢いで促進していくのが資本主義ですね。そりゃみんなが同じ物を欲しがれば、市場は単一で限られたものをどんどん生産して、管理もしやすくて飛ぶようにものが売れますから。だから構造上、世界中の人間が同じ物を欲望することが好ましいのです。でもそれだとブランコに殺到した子どもたちのように、必然とそこに「渋滞」が起こりますね。

 

美的感覚も同じです。この世に厳然たる「美しいもの」はありません。見る人間の内面に「美しい」と感じる感性があるだけで、全時代の万人に認められる「美」というものはありません。だから「美」はいつも括弧の中に入っているんです。現代女性がお歯黒をしているのを見て「美しい」と感じる人はいませんもん(たぶん)。

 

「美しい」ものは欲望される対象、つまり「価値あるもの」です。いや厳密には「価値があるとされているもの」です。現代において最も「価値があるとされているもの」はお金ですね。

 

今は世界中どこにいっても「貨幣」「権力」「名声」などが、「価値あるものとされている」上に、その趨勢はどんどん増していきます。エコロジカルニッチでいうと、本来みんなが愉快に幸せに生きていくためには、この「価値あり」とされているものはもっと多様で各方面に分散されているほうがいいに決まってます。

 

「名声?よくそんなくだらないもの追っかけてるね」はそのまま「ブランコ?よくそんな幼稚なものやりたがるのね」に言い換えられます。「三度の飯より〜が好き」という言葉がありますが、食べるという人間の根源的な欲求さえ二の次に(実際ちゃんと食べますけど)情熱を燃やせるものを持つことができる。人ってそんなふうにもなれるんですよね。

 

でも貨幣や権力や名声を追っかけている人が居てくれないと、たとえば僕みたいに植物とか家具を見つめてニヤニヤしているオタッキーな人間はおちおちとニヤニヤできない。みんなが同じものを一斉に血眼になって追いかけている間に、残った少人数と共にその静かになった場所で悠々と、みんなが見向きもしないことに至上の喜びを感じる。エコロジカルニッチってそういうことだと思います。

 

ただ、世の中が強要してくるその「過剰に肥大した」単一的欲望は分散させないと、ニッチで幸福に生きている人にまで悪影響が及びます。だから僕が関わる人、特に子どもたちにはメジャーな他者の欲望(金、権力、名声など)以外に目を向けさせたい。

 

勉強する理由でさえ「大学に入るため」「いい会社に入るため」と親や先生に説明される。つまりそれは、無数にある欲望の対象をたった一つ「年収」というものに絞って突っ走りなさいと言っているのと同じじゃないかな、と思うわけで。

 

いいじゃないですか、犬の糞に群がるハエの数を数えて記録する子供がいても(それはニッチすぎるか)。食える食えないは関係ないんです(ハエじゃないですよ)。寝食忘れて夢中になれることって貨幣なんかより遥かに価値ありますよ。いやほんとに。

 

たとえば実際に、片方だけ行方不明になった「片手袋」を見つけることに異常なまでの情熱を傾ける人が結構いるらしいですよ。インスタとかに写真載せたりして。「一体それの何がいいの?」と理解不能に陥る、ゆえにニッチは機能しているわけです。世界中の人間が血眼で行方不明の片手袋を探し始めたらえらいことになります。だってそんなに落ちてませんもん。

 

Youtubeも初めは未開のニッチでしたよね。ほんとに好きで動画撮ってる間はいいですが、金儲けしたい人である程度占められると一気につまらなくなってしまう。広告も多すぎて最近は動画にたどり着きません(☞ここの広告は僕じゃないですよ)。

 

まぁ、こういうことを簡単に小学生にでも説明するには、冒頭の小学校での体験はそのまんま使えます。

 

「今の社会は全校生徒500人が一斉にブランコに長〜い列を作っているようなものだよ。他の遊具はガラガラなんだから、そっちでゆったり工夫して楽しんだほうがいいよ。なんだったら自分でルール決めて新しい遊びを作ればいいじゃない。」

 

とは言っても・・・

 

「ブランコがいいの!!!」

 

と一蹴されそうですが(汗)

 

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