脳みそについて

今日のレッスンはおしまい。

 

一番最近の集団レッスンで、各グループに前半でお話しした内容をここにまとめて記しておきます。英語学習の前にざっくり知っておいて頂きたい「学習サイクル」に関して。

 

 

英語学習の土台には何があるか。それを考えるにあたって問題をグッと敷衍してみると、つまるところ英語を離れて人間の脳みそに行き当たります。

 

英語は言語であり、言語学習を行う主体は何かというと、当の人間です。人間の身体のどの部分を使って行うのかと言えば脳みそです。実際脳みそだけでなく、厳密に言えば身体全体を使って学習は行われているのですが、言語学習においては主に脳みそ(それから目、耳、舌、喉など)で学習するという前提で進めて行きたいと思います。

 

脳みそはご存知の通り「右脳」と「左脳」があります。そしてこの2つは繋がっていながら別の役割を担っています。まず右脳は何をしているのかというと「感覚」に関する情報を処理しています。人間の感覚と言えば五感、つまり視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚。これらの入り口から入ってきたそれぞれの情報を脳みそに送ります。

 

左脳は何をしているかというと、主に論理的な計算を行っています。具体的には例えば「言葉」ですね。言葉は本質的に論理的なものです。数学の問題を解くというときにも(数学はもろに論理ですから)左脳が働きます。

 

また右脳は主に「本能」、左脳は主に「理性」とも言えます。だから脳の病気で右脳と左脳を切り離す手術をした患者さんを観察すると、右手で左手のやること止めさせようとします。行きたくもない会社に出社するために朝早く起きる。その場合「行ってきます」と言って玄関の扉を開ける時、右脳は本能的ですから「行くな!」と身体に命令し、左脳は「行かなくちゃ!」と身体に命令する。左右がちゃんとくっついている場合はそこに「小さな葛藤」が実は意識下で起きていて、その結果左脳が勝って身体全体が素直に従います。

 

しかし右脳と左脳を切り離した患者さんはある意味「2つの意識」を持ってしまいます。人の一挙手一投足は右脳と左脳の意見を統合して決定されるはずが、切り離された状態だと個々に意識を持ってしまいます。右脳は左手と繋がっていて、左脳は右手と繋がっていますから「行かなくちゃ」と思ってドアを右手で開けようとすると、すかさず左手がそれを止めさせようとするのです。結局右利きの場合、右手のほうが力が強いですから最終的にはドアは開きます。

 

赤ちゃんが母語を獲得する過程で使われる脳は、したがって主に右脳です。親が発する「音」や「口の動き」を耳と目を通して入力する。そのままとりあえず「マネ」をしてみる。この「マネ」はつまり出力ですね。出力は端的に言って「筋肉を動かす」ということです。筋肉が動かなければ人間は何も出力できません。筋肉を動かすというと何かスポーツなどを思い浮かべられるかもしれませんが、おしゃべりも立派な運動です。口周りや喉の筋肉使ってますから。

 

そうやって出力装置である筋肉が動き、外に出た情報をまた自分の耳で入力し、脳内である種の「修正」が行われてまた出力に至る。このように入力と出力が絶えずグルグル回ることが学習の本質です。エンジンの回転が止まると乗り物の動きが止まってしまうのと同じで、このサイクルが止まると学習は成就しません。「思考停止」という言葉はまさにこのことかもしれません。

 

これらを踏まえると日本の学校のお勉強は(なんと今は大学も)阿修羅のごとくインプットに徹している、とも言えます(笑)

 

 

 

黙読と音読

 

たとえば本を読むという行為があります。英語を勉強するためにとにかく本を貪り読むことは悪くはないのですが、上記の話を照らし合わせると著しく「出力」を欠いていることがわかります。本は文字データですから視覚を使います。視覚という感覚器官を通して入ってきた文字データは、脳内で音声データに変換されます。音声データは聴覚から入り、文字データは視覚から入る。データの種類が全く異なるにも関わらず、それが「同じもの」として認識できるのは、脳内で文字と音声の相互間に「解凍過程」があるからです。

 

話を戻すと、音声データであれ文字データであれ、脳内に入ってきたあとはなんらかの計算を行ってから外に出力しないといけないわけです。それでやっと1サイクル回ったと言えるわけです。その回数を増やせば増やすほど学習の質は向上し、実際に言語運用能力が上がっていくということです。しかし本に記されている文字データを脳みそに入力するまではわかるけど、そのあとの「出力」のやり方がわからないと言われるかもしれません。

 

出力の方法は様々ですが、すぐさま思いつくのは例えば「音読」です。文字データを視覚で脳内にいれてからすぐさまそれを「喋る」という運動を通じて出力する。かつて本というのは音読するのが常識だった時代があります。いつまでそうだったかというと活版印刷が可能になるまでです。従って活版印刷ができて誰でも大量に書物を自宅に所有することが出来るようになったあとから黙読する習慣が広がっていき、やがてそれが常識になったんです。

 


 

黙読が行われたことを示す最古の証拠、とされるのは、397年から401年に渡って、アウグスティヌスによって書かれた『告白』の一節による。

 

かれ(※アウグスティヌスの師アンブロシウス)が書を読んでいたとき、その眼は紙面の上を馳せ、心は意味をさぐっていたが、声も立てず、舌も動かさなかった。……かれはいつもそのように黙読していて、そうしていないのを見たことは一度もなかった。 (『告白』服部英次郎訳 岩波文庫)

 

このあと、アンブロシウスはどうしてそういう読み方をしているのだろう、とアウグスティヌスが理由を考える記述が続くのだが、つまり、このことからわかるのは、四世紀後半に黙読する人間がいた、ということ、そして、それはその理由を考えなければならないほど奇妙なことだった、ということがわかる。

 

柳沼はプラトンの『パイドロス』を引きながら、こう説明する。

 

書かれた言葉というものは、「生命をもち、魂をもった言葉の影にすぎない」(276a)とか、書くということは、知ったことを「むなしく水の中に書きこむことだ」(276c)とか……プラトンにとっては、音読・黙読どころか、語る、または聞く、あるいは対話をすることだけが真の理解に達する道であり、書かれた言葉は、語られた言葉を思い出させるための記録・符丁にすぎない。

 


 

上記の引用からもわかるように、

 

言語というのはそもそも「音」があって、それが本来一番大事であり、それをあくまで記録しておくために「文字」がある。楽譜にはそれ自体だけだとなんの意味もありませんが、それを演奏して音にして初めて音楽が生まれます。

 

 

般若心経と脳みそ

 

般若心経のなかに「色受想行識」とあります(厳密には「無色無受想行識」)。学生諸君の為に般若心経を簡単に説明すると・・・、すごく偉い人が1600年以上前に書いたもの、です。

 

これは一つずつ見ていきますと、まずは「色」。これは男女関係とかと思われがちですがそうではなくて、物質的存在すべてです。なぜかというと視覚を通して見た時に全ての物には色が付いているからです。そして「受」は受ける、つまりそういう物質的存在の情報を五感を通じて脳みそに入れること、「入力」ですね。次は「想」は想うですから脳内の計算ですね。考えると言ってもいいです。そしてその結果が最後「行」で行う、つまり運動につながって出ていくわけですね。そして「識」はそれ全体を意識すること。それら全ては「空(そんなものはないよ)」と言っているわけです。お経ですからね。

 

ですからこれらは明らかに現代における脳科学なんです。紀元3、400年に脳みその働きにに関してここまで意識出来たというのはすごいことです。

 

日本語にもこういう類の事を表す言葉は実はあって、例えば「文武両道」。これは朝は勉強して昼からは竹刀を振り回していることというよりは、本来は「文」は入力で「武」は出力ですね。それが両方ないとだめですよ、と言っているわけです。

 

また陽明学では「知行合一」という言葉があります。こちらのほうがわかりやすいかもしれません。ただ言葉には色んな解釈の仕方がありますから、「知ったことは直ちに行動に移す」と解釈をした人は例えば三島由紀夫ですね。しかし、知って→行って→そしてそれが「絶えず回転しないといけない」。これが僕の「知行合一」の解釈です。

 

とまぁこんなところで、書き始めるときりがありませんね。時間がなかったので殴り書きで失礼しました。全く説明が足りませんが、塾生さんは質問があればまたいつでも訊いてください。

 

最後に、最も脳みそが活性化する時とはいつか。機嫌がいい時、です。

 

では!

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