「リアル」についてのあれこれ

 レッスンでよく日本語の「リアル」についての話になるのでここにまとめておく。

 リアルとは。そのまま英語にrealとしてしまうとそこには意味のズレが生じる。何故かと言えば日本で「リアルだ」という時、指している対象は「本物」ではないからだ。

「これはリアルだ」 ⇒これは本物っぽい

“This is real”   ⇒これは本物である

 

 日本語の意味は「本物に近いね」であって「本物である」ではない。翻って「This is real」と英語で言った場合はそのまま「これは本物である」と言っているだけである。

 したがってもし英語で日本語の「リアルだ」を言いたいのであればrealisticの方がより近い。さらに「リアルだ」を他の日本語に変換したい場合は「そっくり」もしくは「激似」でもいい。realには「現実」という意味もあるが、日本ではその意味で「リアル」という言葉を使うことはない。

 英語と関係ないが記しておくと、現実とは実際「現実感」のことである。英語ではa sense of reality。現実感は100人の人間がいれば100通りの現実の感じ方があるということである。猫に癒されるという人の言う現実と、猫が怖くてたまらないという人の現実を比べればすぐにわかる。目の前にコップがあって「ほら、ここにコップがあるじゃないか」といくら凄んでみても、隣にいる人間が見ているコップとあなたの見ているコップは個々が保有するバイアスを通してしか見ることはできないので、どこまでいっても「あなたの見るコップ」に過ぎない。

 その前提からして現実とは絶えず変わっていることがわかる。その現実感は人間個々に宿り、その人間自体は常に変化するからである。ある本のある言葉を読んだその瞬間から世界が変わった、というのは別に世界が変わったのではなく自分の現実感が変わったに過ぎない。自分であれ他人であれ、現実感を変えるのはある意味容易で、ある意味困難である。その方法論に関してはここには記さない。

 上記の通り、「現実(real)」という言葉は完全な抽象概念である。その抽象概念を作り出したのは人間である。人間が抽象概念を作り出すときの条件は「そんなものがあったらいいな~」という切望であって現に存在するからではない。だから「愛」「正義」「平和」「平等」といった概念も生まれる。もし「万人が認める現実というものがある」という主張があればそれはすなわち、その発言者が「唯一絶対神のみぞ知る現実」があるということに同意したことになる。現実感は人によって違うということを見事に描いたのが黒澤明の「羅生門」である。唯一絶対の現実があるという幻想を社会が常識にしてしまわない限り、わざわざあんな映画が作られることはない。また、全く違う現実を見ている人の現実をこちらが変えるというのは並大抵のことではない。かと言って説得するにも絶対的な「現実」というものもない。そうなると自分の現実を変えてしまったほうが手っ取り早いのである。多くの人間が「ある異様な現実感」を同時に持つ(持たされる)と戦争が起こったりする。それを社会的現実と言う。たしかに人間が概念で生きている以上、社会を作ってその多くの人間がそうだと思い込んでいれば実際にそうなる。ただそれは所詮人間が考えてやったことであるから、「人は死ぬ」といったような強固な現実には歯が立たない。

 また絶対的な現実があると信じてやまない人を現実主義者という。誰にでも通用する現実があってそれを分かっていない人間は非現実的なやつだと一蹴する。人間一人ずつに異なった現実感があるということが常識であれば、そもそも「現実的」「非現実的」という言葉も成り立たなくなる。「お前の生き方は現実的ではない」と凄む人が意味する「現実」とは一体どんなものなのだろうか。いつも気掛かりだが言っている本人はまさかそんなことは考えて言葉を使ってはいまい。現実主義とは、ある一人の人間が持っている現実感を力づくで全体に及ぼそうとする試みだと言ってもいい。そういう意味で言えばファシズムと変わりはないような気もする。

 「国際的な人間」というとただ英語ができる人だと誤解している人が多いのは大昔からかもしれない。もし何をもって「国際的な人間」「グローバルな人間」とするかと言えば、僕は上記のような「現実は個々の人間に宿るものに過ぎない」という大前提を弁えているという点を定義の一つに加えたい。如何なる文化的ギャップに出会おうと「そういう現実もあるんだな」とまずは受け入れられなければ、言語だのコミュニケーション能力だのと言ってもあまり意味がない。同じ日本人同士でさえ個々の現実感を受け入れらなければ、異国人の現実感を受け止められるはずがないからである。仮に世界の万人がこれを常識とすればそれこそ世界平和である。そこで「そういうお前は国際的なのか」と凄む人間をwhataboutistと言う。

 そもそもなぜ、異国人に言葉が通じると嬉しいのか。それは前提が「伝わらないかもしれない」だからである。同じ日本人であれば「伝わって当たり前」だと思うから、伝わらない場合にむしろイライラする。さらにそれが近しい人間(つまり友達や家族)であればあるほど「伝わって当たり前」という幻想がますます大きくなる。異国人であれ同国人であれ、違う人間である時点で「伝わらなくて当たり前」なのである。その前提があってこそ初めて共感の喜びを得ることができるのだ。

 さてそうなると、「ここに書いていることは全てお前だけの現実だろう」ということになる。まったく仰る通りなのである。

 参考までに。

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