To Study & To Learn

ある学生となりゆきで「学力低下」に関しての話になった。いちいち説明するのが面倒くさいのでここに記しておく。学力低下は学力が下がるということであって、そうなるとそもそも「学力」が何かはっきりしていないと何が下がっているのかわからなくなってしまう。さらに「学力」という言葉はそのまま「学ぶ力」ということになり、最終的には「学ぶ」とは何かという話になる。

英語で「学ぶ」はlearnで「勉強する」はstudy。何が違うのか、そういう話によくなる。ネットで勉強の定義を検索してみると、


べんきょう

【勉強】

1.
《名・ス他自》無理にでも(=強)努力して励むこと。

2.
仕事に精を出すこと。
 「やあ、相変わらず―しているね」

  • 学業・技能などを身につけようと努力すること。
     「数学を―する」
  • 今後、事を処するのに役立つ、身にしみる経験。
     「今度の失敗は(いい)―になった」

3.商人が品物の値段を安くして売ること。
 「せいぜい御―いたします」


上記が出てきた。「無理にでも」という表現が実に的を得ている。学生のそれに関しては②の学業・技能などを身に着けようと努力すること、らしい。つまり勉強においての技能と言えば「知識を身につける」という一言に収斂される


まな‐ぶ

【学ぶ】

《五他》

1.教えてもらっておぼえる。見習って知り覚える。
 「運転を―」

2.勉強する。学問をする。
 「よく―・びよく遊べ」

3.経験してよく知る。
 「人生を―」


一方「学ぶ」(「学び」では上手くヒットしなかった)も調べたがなんだかパッとしないので自分で書く。

勉強は基本的に情報を脳にインプットして記憶すること、これに尽きる。だから何度言っても言い足りないが、子供の記憶力「のみ」を測って数値化(縮減)し是非を決めるのが日本の学校である。それは視力を測っていることと変わりはない。視力だって努力次第では上がったり怠惰具合で下がったりするが、そのほとんどは元から決まっている。それを自然という。そんなことはないというのであれば身長はどうだろうか。あいつは背が高いけど、おれは低い。そんなものを測ってどうしたいというのか。

学力低下の「学力」がお勉強(つまり知識の退蔵)を意味するのであれば、僕は大いに結構だと考える。そんなものいくら低下しても構わない。しかしそれが本当の意味での学力の低下だとすればそれは本気で危惧するべきだ。そう考えて「学べ!」と訴えたのが福澤諭吉である。別に福澤は学校の成績を上げなさいと言ったつもりではないはずだ。

学ぶことは決してお勉強のように数値化できない。それに努めて何の意味があるのかが説明できない。無論金にもならない。寝食忘れて打ち込んでしまう。目標もない。ただそこにあるものに知的興奮を覚えること。更にそれらに「モチベーション」だの「努力」だのという概念は介在しない。なぜならそれが人の性だからである。僕は勝手にそう定義する。

しかしそれを徹底的にさせないようにするとどうなるか。摩訶不思議なことに人の知的興奮は失せるどころか、それを通り越して自分で考えない人と化す。否、「考えない」と言った時、そこには主体性が含まれる。そうではなくて「知らない間に考えられなくなった」と言った方がいい。

強調しておくが人はもともと放っておけば学びたい衝動に駆られる生き物である。なぜそうでなくなるか。「そうさせない人」がいるからである。させている本人は無意識であって、なぜ無意識かと言えばそれが「社会の空気」だからである。では一体だれに責任があるのか、だから民一人々々であろう。

自分で考えるとは自分で解答を見つけることではない。学校のお勉強は「全てに解答がある」という点において学びとは本質的に無関係である。自分で考えることが出来るか否かは、自由を与えればすぐにわかる。

例えば生徒が最も苦手とするのは、いきなり原稿用紙を渡されて「なんでもいいから文章書いて」と言われることである。これは実際に何人もの生徒に検証した。きっかけはもちろん英語のレッスンだが、彼らに「なんでもいいからこの文法を使って作文してみて」と言うと彼らはほぼ確実にそれができない(若しくはものすごく時間がかかる)のである。

別に文章でなくてもいい。好きな絵を描いてみて、好きな像を作ってみて、好きな物語を作ってみて。なんであれ自由を与えられた途端に思考停止してしまうというのが最も分かりやすい症状である。それはお勉強がまだまだ足りないからだろうか。否、子供は言われなくても自分で好き勝手描いたり作ったり喋ったり、おまけに壊したりする。

そう教育されて成人した子どもたちが社会に出て尚、上意下達で降りてくる指示だけを聞き、忠実にそれに従い、定年を迎える。60年以上その道を歩んできた人間が突然「さあ、君は自由だ。何をやってもいい」そう告げられる。仮説に過ぎないが、こういう人こそ定年後に急に老け込んでいく典型的なタイプではないだろうか。

ネズミやハムスターも同じである。小さなケージに飼われている彼らは外に出しても警戒してある範囲を超えて行動はしない。しかししばらく外に出しっぱなしにしているともうどこに行ったかわからなくなってしまう。すぐに野生に帰るのだ。それが動物の本能であってそれを社会(親、学校、友達、情報)が徹底的かつ無意識に抹殺する。この「無意識」というのが毎度最も厄介なのである。

さて、本当の意味での学力低下は危惧するところであるはずだが、それを心から願い、実行している人間もいる。自分で考える力がない愚鈍な国民が増えれば増えるほど独裁者は御しやすくなる。何も考えない、何も疑問に思わない人間がいればいるほどコントロールしやすい。独裁でも結構だが、その人間が国民を本気で想いやっている場合に限る。しかし現状はその真逆。

故に結果として一部に僕のようなアナーキスト(寄りの人間)が出てくる。しかし民の殆どは「誰か」の思惑通り、考えない人と化す。だから学力低下というのは「けしからん話」ではあっても「おかしな話」ではない。だってちゃんと「誰か」の思惑通りになっているんだから。彼らにとっては実に筋が通った話である。

デモクラシーが成り立つのはその成員一人一人が自分で考える人であるという条件を満たす時のみである。民主=民が主役。民一人々々が頭を使って考えてなんぼ。つまるところ、学力とは生きる力である。人が真に「学べ」と言うとき、それは「成熟しろ」と同義であり、それは「死ぬな」という愛と同義なのだ。

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