桜への道中にて

先日福岡に出張に行ってきた。   ついでに久しぶりに福岡の大学に通うフランス人の友人にあってきた。桜も咲いていたことだし見に行くかと山を歩いていた時に、バドミントン部に所属する彼女から思わぬ質問を受けた。   「試合の後に必ずコートに向かって頭を下げないといけないの。誰もいないのに一体なんでそんなことしないといけないの?」   なるほど。ある種の驚きと「まあそんなものか」とが同時によぎった。   彼女がフランス人でまだティーネイジャーであることを考えたらさほど驚くことでもないごく自然なことだろう、と。あまり抽象的に言っても確実に理解されないし、いくら平たく言っても「体でわかる」ことはないだろう。   ただここで改めて考えてその質問に平たく答えるとしたら、それは「感謝だよ」の一言で済ませられるかもしれないと思って、実際彼女にもそう伝えた。やはり首をかしげていた。   でもそれは「このコートがなければ試合ができませんでした、ありがとう」ではない。試合するには他にもいろいろ必要なものがあるし、なにより相手がいないと試合は成立しない(だから試合前後に相手に一礼する)。そういう一様「意味」が伴うものは「本当の意味の感謝」ではないと僕は考える。   言葉にうまくはできないが、そこにある「何か」もしくは「すべて」に頭を下げる。それをただやる。数秒の話じゃなか、損はしない。合理的に考えればそんなものは軽く飛んでいってしまう。言葉で「こういうこと」を説明するのは野暮なことだ。   多分こういうことって、その国の無意識の中にある習慣だと思うし、日本人はいい意味でいうとそういう「型」を押し付けられて成熟した末にその意味をそれぞれ見出す。そしてもう一つは「その人がどれだけ苦労したか」も大きく関わっている気がする。   苦労しないと全能感(私は神、的な)を持つだろうし、それが若いの定義とも言える。だから当たり前に与えられているものが、まさに「有り難い」なんて夢にも思わない。そしてそれをいくら大人が意味の説明をしたところでほとんど理解不能だろう。残念なことに。   だからそういう意味では、わからない人には「ヤバい」状態に貶めるのが極論一番早いだろう。身の回りの便利なもの、更にはもっと当たり前だと思ってる身体の健康、そういうのを彼らから奪う。どのようにかは知らない。まあ繰り返し言ってこれは極論だが。   彼女以外のチームメイトがそれをわかって頭を下げているのかは分からない。少なくとも無意識で疑問を持たずにやっているんじゃないかな。こういう日本の無意識の習慣は素晴らしいと思うけど、まあ、他を見渡してみると良くない例もあると思うが。   ともかくもし彼女が「じゃどうやればそれを理解できるの?」と聞いてきたら。   「とにかくやりな」と「苦労してみれば」といったところか。  

Animal – Aurora Lyrics 日本語訳 歌詞

https://www.youtube.com/watch?v=3DIT8Y3LC6M   Aurora - Animal (日本語訳付き)   You are, the victim, The victim of my love, I dangle up on rooftops, before I push you off あなたは被害者 私の愛の被害者よ あなたを突き落とす前に、私は屋根の上をブラブラ歩くの   I stand at the headlights, looking for a corner where I can’t be found, With a goddess in my right eye, watching every lover on … Continue reading Animal – Aurora Lyrics 日本語訳 歌詞

忙しい = 心を亡くす

漢字の勉強の時間。   漢字ってなんとなく使っているけど、そんな意味だったんだ、っていうのは日常茶飯事なわけで。   今回の漢字(別に前回も次回もないが)は   「忙」   忙しい。これは左側に「心」(りっしんべん)で、右側にそれを亡くすと書く。   本当にそのままな意味なのである。「心を亡くすこと」、それが忙しいということ。それを聞いて真っ先に連想したのは英語のビジネスという単語だ。BusinessってBusyが元で「忙しいこと」という意味。   つまり「ビジネスは心を亡くすこと」・・・?   まあなんと。まさにそうではないか。ビジネスにおいて心なんてないわな。それを聞いて「いや、ある」という人もいるかもしれないが、僕は本質的には無いんじゃないかと考える。   10年近く接客業というものをアルバイト時代からやっていた。ほんとうに平たく端的に感じたことを言ってしまえば、タダで商品をお客さんに渡すわけにはいかないわけなのだ。アルバイト時代の店長も、会社の上司もやたら「お客様の幸せのために」という言葉を浴びせてきたが、突き詰めていくとそれは結局「我々」もしくは「企業」そして「株主」の利益の為に尽きる。   話が漠然としすぎていて申し訳ないが、何もそういうものを批判したいという気は毛頭ない。企業はどこまで行っても企業なのだということだ。利益を産まなければ死ぬものなのだ。そういう存在があるからこそ僕たちはある意味贅沢できる。サービスを買うことができる。   ただ商売するなら(もしくはその駒になるのであれば)、程々にやったほうがいい。人間の意識行動がタダでさえ秩序的なのに、数字ばっかり追っかけてたら人間じゃなくなる。それこそビジネスマン=忙しい人=心が亡くなった人になってしまう。   「お宝鑑定団」とかいう番組があるが、いちいち値段出して何が面白いのか理解できない。お金でしか価値を測れない人がそれを求めているということか。イケイケドンドンの時代なんてそんな人だらけだったって親父もよく言っていたけど、今はそこまでではないのかもしれない。でもやっぱりいる。そんな人にはもっと無意味なことをやってほしい。   無意味なこと。無秩序なこと。意味ばっかり追っかけてないで、見えないものにちゃんと価値を見いだしてほしい。「それってなんの意味・効果があるんですか?」なんてため息の出そうな質問はよして、とにかく体が先に反応してほしい。とにかくやってほしい。   なにをって、僕は知らない笑   僕はキャンプをする。焚き火をする。ミニダッヂオーブンで米を炊く。ボーッと火をみて時々いじる。お気に入りのカフェに行くために時間をかけて車を走らせる。5分のところにカフェなんていくらでもあるのに。   キャンプはみんないいねって言ってくれるけど、世の中には時々「お前なんでそんなことわざわざやってるの?」と言われている人がいる。でもそういう人には僕は野暮な質問はしない。そしてちょっと友達になりたいなと思ったりする。   なんでかってその人は少なくとも「ビジネスマン」では無いということだ。       ※ここで言う「ビジネスマン」は俗に言うビジネスマンではなく今日のテーマの「心を亡くした人」である

簡単な話と難しい話の違い

「小説、それは「例えば」を繰り返す作業であって、限りのないパラフレーズの連鎖である。」   ふと考えてみると小説というものは、村上春樹の言うとおり1次的な情報の連続かもしれない。中には難しくてなんのこっちゃとなる作品もあるが、その殆どの語り口はそこにある情景を切り取りながら流れていく。   ファーブル昆虫記のように、ただ目の前にある自然を淡々黙々と情報化していくような書物は現代はすくない。小説はそういう意味では、頭の中で作った物語をそのまま情報化していくという意味ではそれに近い。   反対に位置する書物は哲学書だろう。書いてあることすべてが終始「抽象的」で1次、2次、3次と抽象化のハシゴを登っていく。いやむしろ、はじめから登り終えた状態から始まってそのまま終わる感じである。だから難しい。   ただそういうふうになっているのだなと俯瞰して理解しているのとしていないのでは、違う。   「小説家とは、不必要なことをあえて必要とする人種である」「そういう不必要なところ、回りくどいところにこそ真実・真理がしっかり潜んでいるのだ」   村上春樹は言う。なるほど。   抽象化のハシゴを登れば登るほど下の景色が見えにくくなり、詳細からしか読み取れないものを見落としてしまうということか。抽象化のハシゴを降りる方法として「たとえ」をだすという典型的なやり方がある。   「顔」というのと「彼のその微かに寂しげな顔」というのでは、前者は詳細がなく抽象的で、後者は詳細が説明されていて想像がしやすい。小説は圧倒的に後者の書き方ということだ。   現代の書物の多く(日本で販売される)はどちらかと言うと具体的な内容だ。例えば「サルでもわかる〜」とか「超入門〜」とか。こういう書物を書く人は、抽象的でわかりにくい内容を「噛み砕いて、平たく言い換えて」一般人にもわかりやすく書く。そこには愛があるから僕は嫌いではない。   そういうのを一般意味論と呼ぶらしい。つまり「そんな高いところまで登ったら何言ってるかわからないよ!降りてきてよ!」という論だ。しかし成熟に向かう大人はこういう一般意味論とは逆行しないといけない。つまりどんどん抽象化のハシゴを登っていかなくてはならない。   要は話をどんどん難しくしていかないといけないのだ。いや、抽象化とは本来話をわかりやすくするためのものだ。人は乱暴にも無数の「唯一無二」のりんごを「同じ」りんごの一言で終わらせてしまうという技を身に着けた。それがすなわち「言語」である。   どこで、誰によって、いつそれが採られて、色はこうで、匂いは・・・、などとやっていては説明が面倒くさくなってしまうではないか。だから「りんご」の一言でおしまいだ。これが言語の抽象化、というよりは言語とは抽象化そのものだ。   自分で着想・創造し、それを編集して自分なりの作品を練り上げる場合、この抽象化が必要になる。しかし一方で、他者にそれをわかってもらおうと願う場合はその逆をいかないといけない。どんどんハシゴを降りて、例などを用いながら具体的に話す。それは相手への敬意と愛だ。   「お前にはわかりっこねーよ。でもわかってる俺はこんなにえらいんだぞ」という態度の話者はつねに話がわかりにくい。それは先程もいったように話が抽象化されすぎているからである。一人でやるぶんはいいが、そこには敬意を払うべき他者がいる。   まあハシゴを降りすぎて相手に「バカにしているのか」と思われるのも良くないわけなので、相手の成熟度合いを見極めることも必要にはなってくる。   とまあここまでなんの目的もなく書いてきて見返してみると、割と抽象的になっていてわかりにくいと言われそうだが、そもそもここは自分の「思想メモ」と「共有の場」を兼ねているのでグレーゾーンといったところなので、あまり気にはしない(笑)